丹下健三

日本人建築家として早くから世界に認められた逸材「丹下健三」

世界からも日本人建築家として活躍し、早くから世界にその名を知らしめた日本建築界の第一人者といっていい建築家が丹下健三氏です。

第二次世界大戦後、失意の日本の復興に大きく携わり、国家プロジェクトにもその手腕を活かしたという彼は、磯崎新、黒川紀章などの世界に名をはせる建築家を育成し、従三位勲一等瑞宝章、文化勲章受章などその功績をたたえられています。

丹下氏の作品には復興を強く感じさせる作品が数多くあるのですが、中でもすでに現存していませんが、広島子供の家、また現在平和のシンボルともなっている広島平和記念公園があります。

第二次世界大戦後、1949年同日、広島平和記念都市建設法が制定され、世界平和の願いを訴えるという目的、さらにこのとてつもない悲しみに包まれた世界最悪の過ちを二度と繰り返さないという目的のために、爆心地に近い場所に公園を造る計画となり、この際コンペティションで選ばれたのが丹下健三氏の作品でした。

慰霊碑からは原爆ドームを臨むことができ、世界平和、過ちを繰り返さないという強いを象徴する建造物となっています。

また彼の建築物の中で、その建築家としての能力、天才ぶりをその建物の中に見ることができる作品が日南市文化センターです。

通常建物の壁というのは垂直なのですが、この日南市文化センターには垂直の壁が極端に少ないのです。
コンクリート打ちっぱなしの外壁、ロビーなどほとんどの壁が傾斜しているという作品で、彼の建築技術の高さ、設計能力の秀でているところを表している作品といえます。

つり橋同様の吊構造を持った作品としても有名であり、丹下健三といえばこの作品ともいえる国立代々木競技場は観客を競技に集中させるため、内部に柱を持たない構造となっています。
通常の建築はこう作るという概念を全く持たない丹下健三氏、その天才的な建築能力はこの代表作品とされる建築物からも強く感じることができます。

丹下健三氏の略歴、その歴史とは?

大阪府堺市に生まれ銀行員であった父の転勤によって生後間もない時期に中国の漢口、さらに上海のイギリス租界に暮らします。

1918年に上海の日本尋常小学校に入学し1920年、父の実家である愛媛県今治市に移住、第二尋常小学校、旧制今治中学四年修了(飛び級)さらに旧制広島高校(現広島大学)理科甲類に進学、この学校の図書館で外国雑誌「ル・コルビュジエ」に感銘を受けて建築家を志します。

1933年東京帝国大学建築学受験に2度失敗、東北帝国大学金属学科は毎年欠員が出ると聞き受験したがその吐息たまたま彼だけ落第します。
徴兵を逃れるために日本大学芸術学部映画学科に入りますが、志とは違うためほとんど学校に行かず、本を読みあさっていたようです。

1935年になってようやく東京帝国大学工学部建築家に入学、1938年には辰野賞を受賞、同大学を卒業し前川國男建築事務所に入所、その後、1941年に東京帝国大学大学院に入学、1942年には大東亜建設記念造営計画設計競技で1等入選を果たし、同大学を卒業後、同大学の建築家助教授になり、ここで丹下研究室を作りました。

これからやっと彼の建築家としての活躍が始まるのですが、かなり紆余曲折しながら建築家になったというイメージです。
混沌とした時代の中で、戦後、復興を主軸に建築家として大成していった丹下健三氏は、まさしく日本の建築家の第一人者といっていい存在です。

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